命の大切さ

先日、ある宿で見た「男女共同」に関するTV番組で次のような言葉が耳に残りました。「急激な少子化は、国が成り立たなくなる。」「建前で企業は産休を取れというが、本音では取られたら困る。」「これほど命を粗末にする国は無い。」というものです。私は、日本人の文化的背景が根強いように思われました。

以前、英国に滞在した時、彼らは休日をしっかりとる習慣をもっており羨ましいと感じたことがあります。宗教的に休日は休む日とされており、彼らは土日や連続休暇を家族でゆったりと過ごします。ツーリズムやボランティア活動が定着しているのも、そのような休日を大切にする文化が根付いているからに他なりません。晩婚化や少子化の傾向はありますが、保育園や遊具は充実しており、子供を犯罪から守る取り組みも積極的で、社会全体が子供を大切にしようと取り組んでいます。

さて、日本は、休日は休み、家族と過ごさなければならないという文化は有していないのではないでしょうか。私自身がそうなので、そう思うだけかもしれませんが・・・。まず、宗教的に休日は家族と過ごさなければならないということはありませんし、もともと、農耕民族であることから、休みは農閑期やハレやケの日に取っていたと思われます。田舎に行くと、皆さん土日は地区の出事が多く、意外と忙しい状況にびっくりします。もちろん農繁期は寝る暇を削って働かれています。休暇は農閑期というのが一般的でしょう。会社は、一年中、閑期というものが無いため、忙しい場合は、一年中働き続けなければならないという状況に陥ります。このような状況を社会は問題視しますが、文化的に疑問に思うことはないのではないでしょうか。企業社会に文化が適応できていないのです。

もう一つの、文化的背景として「生命感」というものがあるように思われます。
西欧における「生命」は、唯一無二のもの、絶対的なものです。これは雨量の少ない地域で生活してきた遊牧民族の考え方です。彼らの生命は、守り、保護することで育むことができるものです。
一方、日本における「生命」は、自然に育まれるものという感覚ではないでしょうか。これは雨量に恵まれた農耕民族の考え方です。宇根豊氏は、「自然とは、近代に入り西欧から導入された新しい言葉、動植物に恵まれていた日本人は、自然という言葉であえて意識する必要は無かった。」と指摘されています。私達の生命は、知らない間に勝手に生まれ、いつの間にか死んでいくものといえます。命に恵まれた私達の風土は、そのような日本人の生命感を文化として培ってきたといえるでしょう。

しかしながら、このような生命感が近代から現代にかけて、命を粗末にする文明として発展したと考えられ、今もそれは続いています。里山というキーワードに照らしてみれば、日本人にとって、それはブルドーザーで宅地化されようが、動植物が消滅しようが、放棄して荒れて行こうがどうでもいいことなのです。それは、経済的に無価値だからというだけでなく、自然を意識しない文化的素地があると私は考えます。言語の消失も、それに拍車をかけているでしょう。親の子供に対する感性も、あながち違わないのではないでしょうか。

動植物を大切にする。子供を大切にする。あえてそのようなことを意識し、新しく言語化・情報化・社会化しなければならない。そして、教育・学習しなければならない。そのような取り組みを通じて、私達の感性、文化そのものを改変しなければならない。今、私達は、そのような大きな課題を抱えていると思われます。

京都女子大の高桑先生は、里山活動を「生命環境教育」と言われました。私達は、本当にこの「命」の教育を大切にしなければならない時代にいるようです。

Designとは、計画設計技術でありますが、その目的語に「命を育む」という言葉を挿入する必要があるでしょう。感性と文化を改変する。はたしてそのような事が、教育・学習でできるものなのでしょうか?

命を育むライフスタイル、ライフスケープをデザインする。そのような地域の実践活動が、近道である。私達はそのように考えています。

いかがでしょう、まずは、お子さんと里山にでかけてみては?