水俣湾を訪ねて

asahiro2009-10-02

先日、3年生の合宿研修で水俣を訪ねました。下記の写真は百間排水溝。昭和7年(1932)年から昭和43(1968)年まで、チッソ(株)水俣工場において酢酸等の原料となるアセトアルデヒドの製造工程で副生されたメチル水銀化合物が工場排水とともに排出された場所です。八代海不知火海)は汚染され、一円に水俣病が発生しました。
諫早の後に、この水俣を訪ねてみると、近代化の過程で生じたことについて、考えさせられます。特に水俣の深い傷は、人々の暮らしの根幹であった食卓を通じて病と苦悩が深まっており、とても想像することは難しいと感じさせられました。

水俣湾は比較的閉鎖された八代海の奥部。水俣川が流れ込んでいます。汚染前は、諫早と同様、豊な干潟であったと想像されました。水俣病の影で、あまり注目されることはありませんが、汚染魚の詰まったドラム缶と共に埋め立てられたエリアでは、諫早同様に干潟の環境が失われたに相違ありません。

このようなことを考えると、水俣の自然と地域、企業とのもやいなおしはどのように行われるべきなのでしょうか。私は、職員の給料を減らし、年に何回かは海で漁を行い魚を取ること。棚畑でミカンや野菜を作ることなどを奨励してはどうかと思います。その活動の中で、お互いの傷は癒えていくのではないでしょうか。